息子がユースセレクションに挑戦した(1)

今年の夏はとんでもなく暑かった。
我が家は今年度、2人の受験生を抱えている。とはいえ、のんきな親の生活リズムは普段と変わらずである。ただし、子供達は周囲に影響され塾や通信教育をやりたい行きたいと言い、教育費は嵩むばかりトホホ。あたしが受験生の頃は塾や予備校なんて行けなかったし、自力でやるんだと意地もあったが…。最近の塾、予備校は親と本人の危機感を煽るだけ煽り、まるで新興宗教のようだ。というのはいい過ぎか?
高校受験の塾がやってることは反復反復で、たんまり宿題をだして繰り返し繰り返しやらせるドリル方式。学校の過去問もしっかり蓄積されてて、試験問題は解けるようになるだろうが、自分で問題を解決する力や、自分なりの学習方法を見出す力はほぼ望めないような方法。内部で競争はさせるがそこでつく競争力とは解法と記憶力の勝負ではなかろうか……
とまぁ、こんなことをいっていてもしかたない、今の受験を勝ち抜くためには合理的な方法であることは間違いないのだろうから。
息子は来年、高校受験。親の影響でサッカーが大好きである。小6時、あるJクラブの選抜チームの一つ下のクラスにセレクションを経て入れてもらうことができた。スペシャルクラスとかスーパークラスといわれるもので、所属チームは地元のチームで週に2度このクラスに通ってトレーニングする形態だった。Jのクラブでは別にプライマリーなどと称して小学生のチームを持っていて、この子達はそのクラブに所属して毎日このクラブで練習し試合にも参加する。全国大会などで上位に入る子達だ。
Jクラブでは夏ごろからジュニアユース(中学生)にあげる小6生を決め始める。プライマリーからジュニアユースに上がる子、スペシャルクラスから上がる子、外部からスカウトされる子、セレクションで選ばれる子といろいろなパターンがあり、様々ふるいにかけられ最終的に15人前後が決められていき、Jクラブのジュニアユース所属選手となっていく。
息子は小6時、スペシャルクラスにいたので、これらのテストを何回も受け最終的に上(ジュニアユース)には上がれなかった。小学校の高学年になってからいくどかこのようなセレクションを受けてきたが最終選考まで残るものの、最後に落とされる(落ちる)ということを繰り返してきた。親としても結構つらかったが、本人は親ほどではないのか、懲りずに(?)毎年毎年セレクションを受けてきたのである。落ちた回数は計何十回にもなるだろうか?蒼井優ちゃんもオーディションにかなりの回数落ちたというが、息子ははるかにそれを凌駕している。(何でここで蒼井優?)
しかし、小6時の体験はかなり強烈だったようだ。セレクションに落ちたこともだが、スペシャルクラスやプライマリーの選手達と一緒に練習する中で、ある意味その年代のトップを垣間見たという体験が後々まで尾を引くことになる。
中学になり中学の部活動ではなく地域のクラブでサッカーを続けた。他にも選択肢はあったが、母親が体調を崩したりして遠くの強いクラブに行くことはむずかしい状況だった。1年次は地域の中学生選抜に選ばれさらには県の選抜に選ばれたいのだと、はりきっていた。しかし、地域の選抜には何とか入れてもらえたが、県選抜はさすがに敷居が高かった。その後、身長がぐんぐん伸び始め膝や股関節に痛みを抱えだした。1年生のときはこのためほとんどサッカーはできなかった。地域の選抜の練習(週1)にはいくものの見学ばかりで夜遅く帰ってくるのだが、もう何のために行っているのかわからない状態に近かった。地域選抜の選考は毎年行われる。一応リセットされて新たに選考されるわけだ。2年生になり今年も選ばれるよう頑張るのだと選考会に行ったが、結果は不合格。3年生でも不合格。そりゃそうだ、膝や股関節の痛みを約2年間抱えて、全力でプレーできたことがなかった2年間だった。
3年のこの選考落選は連絡さへ来なかった。けっこうこたえただろうと思うが、彼はまだあきらめなかった。進学を考える上でサッカーの強い学校に行きたいし、それにJのユースセレクションを受けるというのだ。
とにかく、このまま埋もれたくない、とはっきりいうのだ。
本人には小6時の体験があり、あのなかでも自分はそこそこできるのだという感覚が厳然とあるらしく、また、周りの選手が上手ければ自分は生きるという思いもあるようだった。我が息子ながら、あっぱれと思う反面、ユース年代の指導に多少関わった私の目からするとJのユースセレクションの合格は無理だろうと思った。
所属クラブでの彼のプレーを見ていて、長く怪我を抱えていたこともあり、とてもじゃないけどJのユースに入れるようなプレーはできていない。プレーの速さ、判断の早さ、切り替えの早さ、現代のサッカーに要求されるこれらの要素が上では通用しないだろうと私は思っていた。本人には言わなかったけれど。
3年生の春ごろから身長の伸びも落ち着き(父親の身長を超えた)、鍼灸のいい先生にめぐり合ったこともあり、身体に痛みがなくやっと思い切りサッカーができるようになってきた。かれは、毎朝早朝自主練をはじめた。不得意なプレーの克服、得意なプレーに磨きをかけること、身体の上手な使い方(鍼灸の先生アドバイス)など…。
しかし、所属チームのゲームを見に行った限りでは私の目からは彼のプレーがそれほど変化したようには見えなかった。これではまだまだ物足りないという思いで帰宅した彼にそのことをアドバイスしていた。
そして、ワールドカップ。彼はサッカー大好きである。海外のいろんな選手も良く知っている。だけど、今は以前とサッカーの見方が違ってきた、とえらそうなことをいう(笑)。メッシは確かにすごいけど、自分にはあんなプレーはできない、自分ができるとしたら誰だろう、とか、どうすれば一流選手のようにプレーできるのかということを理詰めで考えながら見るようになったらしい。そのなかで、かれはイニエスタに一番注目していた。多分、足がそんなに速いわけじゃない、体格に恵まれてるわけでもない、なのに素晴らしいプレーを簡単にこなす彼のプレー、身体の使い方を一生懸命見ていた。

そして、7月。Jクラブのユースセレクションが始まる時期である。
Jクラブで彼が一番好きなのはガンバ大阪である。攻撃的なチームスタイルが好きだそうだ。また、下部組織から多数の選手を輩出していることも気に入っている要因らしい。私の実家がたまたま万博の近くでもあり、ガンバのセレクションを受けたいという。まぁ、私としても里帰りを兼ねて本人の思い出作りにもなるかな、くらいの気持ちで承諾した。しかし、もう一つ受けようと考えていた神奈川のクラブのセレクションの日程がガンバの翌日だった。少しゆっくり里帰りと思っていたら、結局、一泊二日の強行軍になってしまった(笑)。
ガンバの前日大阪入りしたのだが、大阪に着くなり異様に暑く、これが今年の異常な夏の始まりだった。私の実家ではおじいちゃん、おばあちゃんが迎えてくれ、まぁがんばりや、と(笑)応援。セレクション会場を下見して。いよいよ当日を迎える。
直前まで忘れ物やなにやでごたごたはあったものの(いつもそうだ(笑))、セレクションが始まった。 全部で9チームほどにビブスで分けられて、ハーフコート、ゴールは正規で、7vs7のゲームだった。10分程度のゲームを1チームあたり計4ゲーム行なった。日影で見ていたが、だんだん気温があがり、ピッチからの風が熱風のようだった。子供達もかなりこたえる暑さだったろうと思う。
セレクションのゲームは見ず知らずの連中と当日一緒のチームに振り分けられてゲームをするわけで、味方がどういうプレイヤーなのか、どんな性格なのか皆目わからないままいきなりゲームである。遊びならいいけど、それで合否が決まっていく。私の現役時代そんな経験はほとんどなかったが、緊張はかなりのものだろうと想像する。そしてみな、普通より上手いことは間違いない。
ここで、1ゲーム目に私は息子の変化に気づいた。というか、あれ?と思わされた。妙に自信満々でプレーしているように見える。しかも、チームの中で、ある程度イニシアチブをとってプレーしているし、効果的に機能もしている。主に右のアウトサイドでプレーをしていたが、パスを要求し、ボールを持てば果敢にチャレンジする姿にはやや驚かされた。ゲームの最初の段階でミスなくいいプレーができたことから周りからも信頼されたのだろう、パスもまわってくる。
息子のサッカーを見ていておもしろい、わくわくすると思えたのは中学になって初めてかもしれなかった。周りの選手が上手いと生きる。周りを生かせる。と改めてそう思えた。ただ、ディフェンスはいろんな意味でややお粗末だった。2ゲーム目にはミドルシュートを決めたり、ミドルの惜しいシュートを放ったりしてアピール度も上げていた。か、どうかはともかく、結果はどうあれ彼はこんなプレーができるのかと思った数ゲームだった。セレクションじゃなきゃ楽しいだろうなぁとつぶやいている自分がおりました。
ガンバの結果はその場で発表され、一次選考であえなく敗退だった。セレクションが終わって皆がピッチから出てくるのに、彼はなにやらガンバのコーチと話をしている。なんだ?何を話しているんだ?と…もどってきた彼に聞くと……。所属チームには申し訳ないけど…… 今いるチームがあまり強くないのだが自分はどうすれば強くなれるか? というようなことを質問しに行ったらしい。コーチの答えが彼の心に滲みたようで、落ちはしたもののすごく充実した時間だったようだ。
受けにきてよかった、と彼はそうつぶやいた。
(続く)